16 Years So Far From 阪神 淡路 大震災

今日で 阪神淡路大震災より 16年が 経過しました。
6434人の死者を出し 今なお 震災時の精神、肉体的後遺症に悩んでる人や
家族を無くし 一人住まいの孤独死をする人など 問題は山積みである。

1995年 1月17日 午前 5時46分 
その日 僕は いつもより早起きして まだ出来て間もない 関西国際空港より
朝 9時半位のフライトで 海外出張に出る予定でした。
それが 見覚まし時計のベルどころか 爆弾が落ちて 家が爆破され、体が大きくリバウンドし
投げ出された感覚で目を覚ましました。 それから 外に出ても大阪は未だ平穏無事な感じで
JR玉造駅で駅員さんは『地震の点検の為 一時運転を休止します』と手書きの張り紙を貼って
いるところでした。そうか あれは地震かと初めて理解し、これは出張は無理かな?
飛行機会社に問い合わせしなくちゃな と 未だそれくらいの現実感で 家に帰りテレビを付けて
しばらくすると、段々 何が起こってるかが 判明し これは 出張どころでは無い
神戸の街が 段々段々 潰れて 燃えて 無くなって いきました。

その頃 僕は神戸 三宮で 『 SPOONFUL 』 と云う USA Brand と 古着の店とまだ出始めの
Grateful Dead のTシャツなどの店を 卸のかたわら 初の直営店として始めて半年位経った
時でした。15日が成人の日の祝日で、予想以上によく売れて 冬物最後と16日にどーんと
品物を入れた後にこの震災で テナントビルごと 埋もれてしまいました。うちとしては、ただ
不幸中の幸いと云いましょうか、その時のスタッフ、アルバイト 家族を含め 無事でした。

震災の1週間後 店の状態を見に行こうと 神戸 に入りました。
勿論 鉄道JRも阪神も阪急も復旧はしていなく 途中まで乗って それから代替バスに乗り換えて
三宮を目指します。途中 あのニュース映像で有名な崩れ落ちた阪神高速神戸線の横を走ります。
着いた 神戸三宮の街は 僕の知ってる 新しくて綺麗で古い 憧れの街では 無かったです。
ビルが根っこから倒れ 駅が崩れ 飲食店からは 冬で寒いとゆうのに 食品の腐った匂いが
漂い 寒くて どこかに入ってトイレがしたくても 水が出ない 流れない。僕は 戦争は経験した
ことはないですが、自衛隊が治安維持に入り まるで 戦時下のようでした。
テナントビルにも入れず 店の状態もその日は分からず 精も根も尽きての夕方の 帰り
三宮代替バス乗り場は 凄い人の列。 5キロ程の距離 駅まで歩いて向かおうと 歩き出し
国道沿いの住宅地 行きはバスなので 潰れた家しか分からなかったが、軒並み ぺしゃんこに
なった家の前に花が置いて 供えて有る。多分未だ ここからまだ出されていない人も居るのかも
しれない と、、ずっと手を合わしながら 『何をどう祈って良いものだろうか?』 と考えつつ 
ただ ただ 目を閉じ手を合わし 歩きました。知らない内に 余りの悲惨さに 涙が出ました。 



あれから16年。。 震災を知らない神戸の住民も増えてきたそうです。
今日も1日 震災のニュースばかりで 関西では深夜また特集のテレビ番組をするでしょう。
僕もあれから震災の2年後の1997年 三宮で 『BREAD & ROSES』の店名でSan Francisco
チックのHippie & Organic の店を10年間 営みました。その間 A HOPE HEMP Brand も
生まれました。A HOPE HEMP の 公式 直営店として 色んな活動をしました。
神戸直営店は2007年に一旦終了し 一応 震災後の10年間で神戸でやり残した事はなくなり
ました。その後 また違った感じで 神戸方面の卸し先も増えました。みな震災後の店で次世代の
新しい店です。綺麗な鎮魂の意味での ルミナリエも生まれ 今や恋人たちの冬の神戸の風物詩と
なりました。街も復旧し 元のようになり 活気も100%でないにしろ 大分 戻りました。
確かに凄い衝撃をあの震災は与えてくれました。人の結びつきなど良い面も出たとも思います。
でも あの神戸 淡路が ふるえた日を 忘れずに 次の世代にも 伝えていかねば と思います。
忘れさせ 風化させる事だけは したら あかん と思います。

Love & PEACE In Kobe On Whole The Earth

Memories of Spoonful Kobe



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by staygoldco | 2011-01-17 16:06 | Knowledge  

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